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【第一部】 私の車歴(内8割位は私自身の経歴w)
【巻の1】

●1987年(昭和62年)8月10日 ハル公・18歳 普通自動車免許 交付。

中学を出てすぐに親父(実父)の下で修行(*1)を始めて2年を数えた頃私は、
仕事の上でどうしても必要なので普通自動車1種免許を取る事に。
しかしこの頃はバブル景気(*2)の真っ最中で大忙し!
しかもこの年から、親父と叔父(父の実弟)の勧めも有り夜間定時制の工業高校に通い始めたばかりだった。
挙げ句親父は自分が操れないくせに最新のワイヤカットNC放電加工機(*3)を買うとぬかしやがる。
勿論私をアテにしての事だ。(その私もNCなど触った事すらないと言うのに!)
生来努力家ではない私にとってこの状況は地獄の責め苦だった。
「どこまで俺を追い詰めたら気が済むんだー!」
叫びたい気持ちを押し殺しての下校途中、
何度金山橋(*4)から下を走る列車に身を投げ掛けた事か・・・(うそ)

「てみゃぁ、なぁ〜にモタモタやっとるでゃぁ! ゼニだってタダでにゃぁぞ!!」
などとコテコテの名古屋弁でうざられ(←コレも名古屋弁か?)ながら卒検3回目(T_T)にしてようやくパスし、
免許証を手にしたのは誕生日を3ヶ月近くも過ぎた真夏のクソ暑い日だった。
BOOWYの"Marionette"(*5)が流行ってたっけ。

学校からの帰りに閉店間際の本屋で、
「どのクルマ買おうかな〜♪」なんてニヤニヤしながら自動車誌を立ち読みするのは至福の一時だった。
・・・で、選んだのがコレ。
直線のみで構成された男性的フォルムのクーペスタイル サイドまで回り込んだ一体成形のリアウィンドゥが美しい
ニッサン サニークーペ Rz−1(アールズィー・ワン) / TWINCAM NISMO

DOHC16バルブ/4気筒/1600cc/自然吸気 と、何ら特筆する所の無い普通のマシン。
同クラスなら大方はTOYOTAの「カローラ/レビン」「スプリンター/トレノ」辺りにする所だろうが、
「皆と同じ」って言うのが大嫌いな私はあくまでコレなのだ。
「目立ちたい」「羨まれたい」「コレで女の子をナンパしたい(笑)」などと言う「色気」は更々無い。
マイナーでも良い。とにかく「皆と同じ」なのが耐え難い程に嫌なのだ!
今にして思えば私の「マイナー嗜好」はこの頃からだったのかも知れない。
いや、もっと昔からだ。恐らく私自身も記憶に無い程幼い頃からだったのだろう。
そのマイナー嗜好は、現在の愛馬 VT250/ゼルビス へと繋がって行くのである・・・(?)

或る日、親父が私に尋ねた。
(不気味なニヤニヤ笑いを浮かべながら)「おみゃぁ、車買うつもりきゃぁ?」
私は親父にRz−1の写真を見せ、購入の意思を告げた。勿論自分の貯金をアタマにしてである。
すると親父はこう言い放った。
「たぁーけ!昨日今日に免許取ったばっかの奴が新車みてゃぁな百年はやぁわ。俺の車乗っとけ!!」
自分の金で買うし、維持もちゃんとするから問題無いのではないか?と食い下がったが問答無用だった。
こうも言われた。
「月賦(死語。現在では大抵「ローン」と言う)でモノ買う奴がクルマの維持費なんぞ出せる訳にゃぁて。」

悔しかった。悔しくて涙がこぼれた。だが親父の言う事は正しかったと思う。
口は悪いがそれは親父の精一杯の愛情だったのかも知れない。(どうかな?)むしろ今では感謝している。
だがその時は「悔しさ」しかなかった。ぶちキレた私は以降数年間、「貯金の鬼」と化したのであった。(苦笑)


かくして私が約1年間辛抱して乗り続けた「親父のクルマ」がコレ。
ブルーバード2ドアHT。親父が15年間愛用したクルマ。
ニッサン ブルーバードU 2ドアハードトップ SSS(スリーエス)
(写真は 2ドアハードトップ デラックス)


昭和40年代後半のモデルなので今のクルマの様にパワステもブレーキ/クラッチアシストも無い。
マニュアルミッション車である事も手伝って、走らせるだけで必要以上に筋力を要する。
まるで「走るトレーニングジム」と言った趣である。
オマケにそのシートポジションはスポーツカーそのもので、全高162cmの私にはとても厳しいものだった。
シートを前一杯に移動させてシートバックを起しても、
自車のボンネットフードが見えないのだ!(座面が極端に低い)
自分で車を買える様になったとしても、スポーツモデルだけは辞めておこうと心に誓った。(笑)

しかし、排気ガス規制以前のクルマは速かったね。
このモデルは1600cc/SOHCだけど今の2リッタークラス位の加速性能があったと思う。
扱い難いけどさ・・・
私がまだ幼い頃、滅多に子供をクルマに乗せなかった親父が、
珍しくドライブ(実は知人の世話焼きついで)に連れて行ってくれた時は、
キャブレターが奏でるその吸気音に胸を躍らせたものである。
大人になった今、バイクの吸気音にときめく気持ちの原風景が、
この時の経験にあるのかも知れない・・・


【注記解説】

(*1)修行 : 父の商売である金属加工業を手伝いながら、そのノウハウを教わった。
周囲からは「親父さんの跡を継ごうなんて立派だねぇ。」などと誉められたものだが、
実は高校へ行くのが嫌で仕方なかっただけ。(笑)



(*2)バブル景気 : 1980年代後半〜1990年代初頭に掛けて見られた好景気。
その熱狂振りは「異常」と言う他は無く、
高級車やブランド品が飛ぶ様に売れ、地価や株価は上がりまくった。
無論そんな景気がいつまでも続くはずは無く、実体の無い経済は低迷し、現在に至る。
膨れ上がり、間も無く消滅した経済状況を「水の泡(=bubble)」に例え、
後にこう呼ばれる様になった。

お陰でウチは儲かったけどな。(^m^)



(*3)ワイヤカットNC放電加工機 : 真鍮や銅などで造られた糸状の電極線を陽極(+)、
ワークテーブル上に取付けた被加工物を陰極(−)とし、放電によって焼き切って行く加工機。
コンピュータによるNC(numerical control=数値制御)により、
マイクロメートル(1mmの1/1000)単位の精密加工を可能にする。



(*4)金山橋(かなやまばし) : 名古屋市熱田区金山町1〜波寄町。
通称・大津通りが、JR中央本線/東海道線/名鉄本線を跨ぐ跨線橋。
同年より4年間、JR中央本線〜名鉄本線を乗り継ぎ片道1時間強を掛けて通学した。
現在は総合駅('89〜)となり、JR線と名鉄線の連絡は同じ建物内で出来る様になっているが、
当時はJR改札を抜けてからこの橋を渡り、線路の反対側へ歩かなければならなかった。

後に、車で行った方が速くてお金も掛からない事が判明するも、
私の運転技能を信用しない父により自動車通学は阻止された。



(*5)BOOWYの"Marionette" : 日本のロックバンドと、その楽曲名。
氷室京介、布袋寅泰、松井恒松、高橋まこと(最終メンバー)の4人で活動していた。
この"Marionette"をリリースした同年('87年)、
シングル「季節が君だけを変える」を最後に解散。



kazuhirotousan@yahoo.co.jp


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